いらすとやについて思うこと

いらすとやの中の人は空気を読んで上手に馬鹿になれる才能がある方だ。

様々な思想を持つ人間たちの怒りに触れないように汎用性のある馬鹿を演じている。

メディアに顔を出さないのはその計算しつくしたバランス感覚に突っ込みを入れられたくないからだと踏んでいる。それを語ると自分が惨めになるからだ。そしてそのバランス感覚は突然炎上するネット社会において一番使えて金になる要素だ。つまり世間と相性がよい。一線を決して超えないそのズルさ故に表立って活躍出来ないのだ。楽してお金を稼ぎたいという心理はどの人間も持っているだろう。楽というのはこの場合精神的な楽さである。私はその執念を中の人に感じる。そのためにバランス感覚の発揮だけはメスを持つ医者のように慎重なのだ。中の人がメディアで絶対に語りたくないことは自分自身の「思想」だと思う。政治的なものから生きるための本質についてなどだ。中の人はそういう意味で自分自身の全てを表現するというクリエイティブさは放棄している。もしくは放棄せざるを得なかった。その理由も色々思いつくがここには書かない。私は中の人から人間としての健全さは感じない。病みさえ漂っている。自分を曲げて社会の中にいかに溶け込むかの策を重視する人は現代社会においては重宝される。自分を曲げる行為はストレスだし、その部分がテンプレート化されていると楽だから。労働の基本性質かもしれない。知名度「受け」を得たフリー素材はコンビニのように便利なのだ。牛を自分の手で殺すことなくビーフカレーが買える。そういうのも全部理解して中の人は活動されていると思う。私たちはイラストを無料で使っているのではなく、自分を押し殺す変わりに生存を選ぶという苦しみをいらすとや氏に肩代わりしてもらっているのだ。あのイラストたちの笑顔の裏に笑顔はない。私にはそう見える。