優生思想

優生思想は単純に優れたもの(その思想を持つ人間が勝手に決めた基準)への称賛と、「もうこの現代において他人のことを面倒見ている余裕はない。自分の力だけで生き残れない者たち、立場を弁えず権利だけ主張するものはお荷物だから搾取されて当然。ただでさえ条件付き制限の中でやっているというのに。無知(これも彼らが勝手に決めた基準)なくせにぐだぐだ五月蠅いんだよ。いい所は全て独占させろ。それだけのことを我々はしているのだから。」みたいな猛烈なえぐさと身勝手さも同時に感じる。つまり思いやりみたいな概念が後回しにならざるを得ない現状に対する最終手段が優生思想みたいな。様々な点で優れた者たちが謙虚になる理由を見失っている。倫理や道徳よりも美意識や妄想を重視する悪質なアーティストのようでもある。私は消極的な優生思想の持主だと自覚している。なぜなら見た目が醜い人間より美しい容姿の人間が好きだからだ。これをもっと凝縮して傾けるとごりごりの優生思想になるのだと思う。

こういう好みですら優生思想に加担しているのかもしれない。そう思うと結局同族嫌悪かと。優生思想の実現を加速させる装置が世界中に仕掛けられているが、自然の流れの中でも優生思想はある程度実現されてしまっている。遺伝子組み換えのように恣意的に手が加えられてしまっているからこそこの思想は極悪の色を放つ。人間が優れた遺伝子を求めて子孫を残そうとする本能は動物としては当然な気がする。本能と思想は違う。

ということは人間は本能と思想を区別出来なくなっているともいえる。動物としての人間と知能や理性を持つ特別な生命体としての人間を平等に見ていかねばならないのでは。始めにも述べたが何をもって優れていると思うかは人それぞれ違う。私も容姿の良し悪しを重視しているわけではないし、個人的にもっと大事にしていることはある。人間は人間という生命を平等に尊重し尊敬していかねばならないのだろう。まあ無理そうではあるが。綺麗ごとや理想は人間には無理なのかもしれない。無理ならその中でなんとか良い解を見つけていく努力をしていくしかない。実現しなくても理想を言葉にする行為には意味があるかもしれないし。人は人(自分自身も)を尊重した方がよいという途中の解で止まらずに前に進むにはどうするべきなのか考えたり自分なりに行動しようとは思う。バランスというのは大事ですね。