呪術廻戦の禪院真依の元ネタキャラかもしれない女性

呪術廻戦の禪院真依というキャラクターを知って誰かにそっくりだと思った。

しばらくしてアニメ版十二国記のオリジナルキャラクター杉本優香だと気づいた。

とにかく似ている。性格も表情も髪型も行動も。

個人的には元ネタではないだろうかと疑うほどだ。

 

ということは禪院真希は中嶋陽子かもしれない。そういえば彼女はポニーテールで赤い眼鏡をしている。中嶋陽子もポニーテールで赤い髪をしている。

これはあり得るな。呪術廻戦は正直まだよく知らないのだが、

禪院真希がある程度権力を得る未来があるかもしれない。

中嶋陽子は慶東国国主。王なので。

 

 

 

疲れ

連日想定外のことで時間を奪われ自分のことが後回しになった。

そんな中で体調を崩したので一周追い抜かされたランナーのような生活になっている。

追い打ちのように面倒なメールも届いた。

今日はそれに返信して、周回遅れを取り戻すために深呼吸しているといった感じだ。

灯油の蓋を何日も閉め忘れていたことにも今日気付いた。

それでもやっていく.....

ただ髪を切ったのは正解だ。とてもスッキリした。やはり髪は短い方がよい。

怪病医ラムネ

「怪病医ラムネ」というアニメを知った。

目から調味料が出たり、頭からポップコーンが飛び出したりする。

ぶっ飛び過ぎていてすごい。

OPの曲もかなり明るい曲調で狂気を感じた。

病気という下手したら叩かれそうな題材だからこそ

現実の病気を想像出来ないレベルのデフォルメが必要だったと考えると

わりと理解出来た。

アニメの色彩デザインも目が疲れるほどカラフルで毒々しかった。

でも見終わると不思議な人間の優しさが残る。好印象だ。

作者が優しい方なのだろう。奇抜な表現方法だが斬り合ったり恨み合ったりするアニメより道徳的だと思った。

米山駅

「米山駅」で降りる夢を見た。

アナウンスを聞いて大慌てで黒い靴を履いた。

どうやら私は靴を脱いで椅子の上で足を組んで座っていたようだ。

隣に座っていたのは知らない男性。

一人降りた後知り合いを探していた。声をかけてきたのはピアノの教師だ。

もう何年も会っていないし、何の用事でこの駅で降りたかもわからない。

奇妙な夢である。米山駅に縁もゆかりもない。

駅は乗り降りする人たちで混雑していたが、新しい駅でも大きな駅でもなく、

田舎にあるような古いつくりのわりと狭い駅だった。

起きてからまず米山駅という駅が現実で存在するかを調べた。

私はこの地名を認識していなかった。検索して初めて存在することを知った。

画像検索をしたら夢で見たイメージに近い。

「田舎にあるような古いつくりのわりと狭い駅」に見える。

偶然だろうか。私はいつか米山駅に行くのだろうか。

持っていた切符は大きめの切符だ。自動券売機で購入するタイプの切符ではなかった。

駅員のスタンプが押されていた。見たことのない仕様。

とにかく具体的な夢だったので記すことにした。

夢の中では夜になりかけている夕方といった暗さだった。

コート類を着ている人間が多かったので秋冬といったところか。

ピアノ教師と合流ということでこの地でコンクールでもあったのだろうか。

夢の中の私がピアノを弾けるとは思えないが。

夢はとても短かった。電車から降りて駅の構内で人と会う。

それだけの夢であった。

続きがあるなら興味はあるが発表会やコンクールなら緊張するので

やはりこれ以上は望まない。

 

会話中に出てくる信頼とは

会話中に出てくる「信頼しているよ」とは

「君の良心をコントロールして僕は利用できるよ」という意味。

信頼しているなどと敢えて伝える行為は

「あなたの隠しているつもりの損得勘定は僕のやりたいことに利用できます」

 

心に秘めた信頼しているという気持ちはまだ何も見えていない無知で視野が狭く甘い自分への過大評価と現実を受け入れられない妄想癖。

いらすとやについて思うこと

いらすとやの中の人は空気を読んで上手に馬鹿になれる才能がある方だ。

様々な思想を持つ人間たちの怒りに触れないように汎用性のある馬鹿を演じている。

メディアに顔を出さないのはその計算しつくしたバランス感覚に突っ込みを入れられたくないからだと踏んでいる。それを語ると自分が惨めになるからだ。そしてそのバランス感覚は突然炎上するネット社会において一番使えて金になる要素だ。つまり世間と相性がよい。一線を決して超えないそのズルさ故に表立って活躍出来ないのだ。楽してお金を稼ぎたいという心理はどの人間も持っているだろう。楽というのはこの場合精神的な楽さである。私はその執念を中の人に感じる。そのためにバランス感覚の発揮だけはメスを持つ医者のように慎重なのだ。中の人がメディアで絶対に語りたくないことは自分自身の「思想」だと思う。政治的なものから生きるための本質についてなどだ。中の人はそういう意味で自分自身の全てを表現するというクリエイティブさは放棄している。もしくは放棄せざるを得なかった。その理由も色々思いつくがここには書かない。私は中の人から人間としての健全さは感じない。病みさえ漂っている。自分を曲げて社会の中にいかに溶け込むかの策を重視する人は現代社会においては重宝される。自分を曲げる行為はストレスだし、その部分がテンプレート化されていると楽だから。労働の基本性質かもしれない。知名度「受け」を得たフリー素材はコンビニのように便利なのだ。牛を自分の手で殺すことなくビーフカレーが買える。そういうのも全部理解して中の人は活動されていると思う。私たちはイラストを無料で使っているのではなく、自分を押し殺す変わりに生存を選ぶという苦しみをいらすとや氏に肩代わりしてもらっているのだ。あのイラストたちの笑顔の裏に笑顔はない。私にはそう見える。

 

もったいない

ゴールデンカムイのメイン女性キャラの声優の声が作品の世界観を軽くしてしまっている。子供が視聴できるようにハードな内容を和らげる目的でそうなっているのなら企画コンセプトの問題だが、作品として相応しいと信じて選んでいるなら趣味が悪いしセンスもないと思う。

この作品のキーマン(決定権を持つ者)になる誰かが選んだのだとしたら、客観性が足りない。作品の内容はこの客観性を大事にしている配慮が見られるのに声優の声質と演技力でぶち壊しだ。詰めが甘い。もったいない。アニメというのは隅々まで考え抜かれ俗っぽい欲を取り除けたものだけが名作になるのだろう。

 

それにしても蟲師の映画俳優は作者が決めたというのは本当なのか。

なんだかがっかりした。本当だったら更にがっかりするので追って調べてはいない。