敢えて

自分が真剣に取り組んでいた事をくだらない劣等感に勝つ道具として決して利用しなかったことに関しては好ましく思っている。そういうところは長所だと思う。でももしそれをしていたら何らかの扉が開いていたかもしれない。私は自分の中の無気力をなくしていく努力はしていかねばならないだろう。利益より些細な信念を大事に出来る強さはもう少し欲しいところだ。

小説

小説について考えていた。ある小説についてではなく小説というそのものについてだ。結果だけ書くと何と不自由なものなんだろうということ。人間が書き、それを社会の中で見せるという行為は不自由だ。本当の小説は日記のように引き出しの中で眠る言葉たちだと思った。誰かの目に触れた時点でそれは不自由な文字の羅列だ。文学は数学のように条件が付いている。数学と文学は似ている。

理不尽な死という言葉について

所謂善人と呼ばれるような人の死が「理不尽な死」として当たり前に描かれているとそれは違うだろうと思ってしまう。現実において理不尽な死というのは存在しない。必ず原因がある。その原因を本人や周囲が誰一人としてわからなくても必ずそれだけの死を迎える根拠はある。よってあらゆる死を「理不尽」だと決定する人間が間違っているのだ。理不尽な死は悲劇ではない。全て本人の責任である。

絶望の話

絶望への対処や解決がなされないままの歴史を積み重ねているので、

絶望することが当たり前になっている。絶望する権利があると思っている。

絶望を乗り越えた人もいるのだろうが、個人レベルの処置なので応用が効かないし広まらない。

不幸自慢ならぬ絶望自慢。そんな作品や言論が増えたように思う。

そもそも絶望なんてものは本当にあるのだろうか。

大きな壁に見えるが実は些細なことだったと捉えることも可能だろう。

ただ共感を得られない。

絶望が存在しないという主張は身勝手で無知だと思われがちだからだ。

あまりに大きすぎるものは見えないという。

大きすぎるものを描ける人たちがいない。

まあいなくていいのかもしれないが。

 

偽物の悔しさと焦り

悔しさと焦りをすぐに忘れてしまう。

こういうのはもっと持続する感情なのではないか?

つまり私の感じていた悔しさと焦りは一時のものであった可能性がある。

自分の中の証拠としては、いつどんな時も忘れない事もちゃんとあるからだ。

まあそれを中心にやっていけばよいのだ。

 

そういえば勇気も誠実さも中途半端なのに場をコントロールしようとするタイプの人間がいる。本当に厄介だ。エイリアン並みの生命力と不自然で不気味な作り笑顔。色々怖い。怖い人間たちが周囲に沢山いるのは呪いのようだ。

この呪いを解くには自分だけは怖い人間にならないことだ。そして怖い人間たちとの距離感を間違えないこと。

ここでいう「怖い」は自分語である。皆誰しも自分だけが引ける辞書を持っている。